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鳥公園の『abさんご』2021/ワークショップ「黒田夏子『abさんご』の文体に取り組む」

終了
鳥公園の『abさんご』2021/ワークショップ「黒田夏子『abさんご』の文体に取り組む」

鳥公園の『abさんご』2021/ワークショップ「黒田夏子『abさんご』の文体に取り組む」

終了

開催概要

黒田夏子の小説『abさんご』を題材に、アソシエイトアーティストによるワークショップを開催します。
是非奮ってご参加ください!

2021年10月24日(日)〜11月24日(水)
三浦雨林ワークショップ

​2021年12月10日(金)~12月19日(日)
蜂巣ももワークショップ

2022年1月19日(水)〜1月27日(木)
和田ながらワークショップ

このワークショップは何なのか?

『abさんご』は、本当にこうでしかあれない、もう一文字も動かせないところまで研ぎ澄まされた小説のように私には思えます。記憶というものを、説明を徹底的に排除して、経験そのものとして文字で記述したものがこれではないか。
小説の冒頭を一段落だけ、ご紹介します。

〈受像者〉

aというがっこうとbというがっこうのどちらにいくのかと, 会うおとなたちのくちぐちにきいた百にちほどがあったが, aにもbにもついにむえんだった. その, まよわれることのなかった道の枝を, 半せいきしてゆめの中で示されなおした者は, 見あげたことのなかったてんじょう, ふんだことのなかったゆか, 出あわなかった小児たちのかおのないかおを見さだめようとして, すこしあせり, それからとてもくつろいだ. そこからぜんぶをやりなおせるとかんじることのこのうえない軽さのうちへ, どちらでもないべつの町の初等教育からたどりはじめた長い日月のはてにたゆたい目ざめた者に, みゃくらくもなくあふれよせる野生の小禽たちのよびかわしがある.                                 黒田夏子『abさんご』(p.4)


何と言ってもこの小説の、主語(主体)の扱われ方(というか正確には、クッキリ扱わないようにするやり方)の独特さが気になっています。「誰が」が文の起点になっていない。「誰が、どうした」ではなくて、例えば「Aという主体」と「Bという主体」があってその間にある取り交わしがあったとしたら、その出来事が「間に起こった取り交わし」起点で書かれている。AもBもそこにいるのですが、「Aが」、「Bが」という現れ方はしません。
これは私が演劇でやりたいことだ!と思いました。思ってすぐ、自分で演劇にしようと少し試みたものの上手くいかず、数年放ってありました。それを今、再び取り出して3人のアソシエイトアーティストに渡してみました。

「いや、渡されてもな」という反応がありました。
「これを何らかやってみることはできるよ、たぶん。でも、何らかやる、でいいの? もう少しなにか……何を望んでいるかとか」

という言葉に答えると、私は劇作の新しい文体を獲得したいのです。
私がこれまで書いてきた戯曲の言葉は、個の輪郭がぴっちり閉じられた人間が、「自然」に喋る演技を想定して、それを上演者にも要請するものであったように思うのですが、もっと違った人間と世界の捉え方をしたい。

先日、江戸糸あやつり人形結城座の公演を観に行きました。
結城座の人形遣いは黒子スタイルではなく、顔を出して衣裳を付けて、人形を操りながら台詞を言います。登場人物の人形に当てられた台詞を言っているのですが、しかし人形遣いも表情を持っていて、単に糸を繰ることだけに徹しているのとは少し違う感じがしました。存在の重心が、人形だけにあるのでもない、人形遣いにあるのでもない、両者のあいだにある感覚で、例えばこの身体性に向けて書くことができたら、今の私がどうしても囚われている「自然さ」というものから自由になれるんじゃないかと思いました。

もう一つ最近のこととしては、月1ペースでやっている鳥公園の読書会で、樋口一葉の『たけくらべ』を読みました。一葉の文体は、ひと続きの地の文の中でも語り手の位置が移動して(一般的には客観的であるべき(?)と思われる地の文が、登場人物の誰かに移入するような視点から、また別の誰かの近くへ添って)、さらにその地の文が誰かの発話した言葉にシームレスにつながってまた地の文へ帰ってきて……、情動的にうねっています。
そこに人が居る感じ。でもそれは、グーグルマップ的な俯瞰で観察可能な、一個、一個に切り分けられてきちんと輪郭をもった誰それ(主語)が、どうした(述語)という出来事の記述ではなく、出来事の内側に入り込んで出来事そのものになった者によって(もしくは、出来事そのものになった者、が?)書かれているような記述です。

それから、能の地謡が気になっています。シテの台詞を引き継いで語ったり、かと思えばもう少し離れた視点から、シテを含んだ状況を叙事的に語ったり。キャラクターはなく、役割だけがある状態で、舞台上に身を置いている。そのとき〈私〉の置き位置はどうなっているのか?

……と、最近心に留まった「言葉と身体(性)の関係」や、「世界認識(視点)と文体」の例を挙げてみましたが、そんな風にして、自分の惹かれる文体を収集して観察しています。そしてこの文体研究をより身体的な方向に発展させたいと思ったのが、今回のワークショップです。
3人の演出家が『abさんご』の文体にどんなアプローチをしてくれるのか、とても楽しみです。(西尾)