『ヨブ呼んでるよ』について ― 西尾佳織インタビュー
――今回『ヨブ呼んでるよ』が再演されるわけですが、この作品で取り組んでいることをお話しいただけますか。
「言葉を持たない人の言葉」について考えたいっていうのは初演のときからずっとあります。今回はリクリエーションにあたって、1シーンだけ戯曲を新しく書き直そうとしてるんですけど、そこがその「言葉を持たない人の言葉」についてのシーンで、そこで主人公の希帆が話す言葉っていうのが一体何なんだろうという部分がいまだに考え中です。
聖書の世界って結構男性に中心が置かれてると思うんですね。『ヨブ記』のヨブは恵まれたところから転落するけど、すごく言語化能力のある人で、そもそも発言権もあって、ちゃんと発言を拾ってもらえている。じゃあ主人公が女の人だったらどうなんだろう、とか、生まれたときからずっと苦しい環境にいて、自分がいま置かれている状況がこういうものであると、俯瞰して対象化できる能力とか条件が整ってない人だったら、どうやって救われるんだろうということを考えたい。
そういう問題設定をしている私自身はやはりとても恵まれていて、言葉を持っている側ではあると思うんですけど。でも2020年に出産をして、子供がいる状態になってみたら、それまでの私は「自分の時間やエネルギーを管理して、個人としてバリバリ働く」っていうところになんの躊躇もなく入れていたんだなということに気がついて。そこからちょっと外れてしまったと感じるようになっているいま、どう言葉を発したらいいのか。活発な活動の場所や言論が交わされる場所、あるいは劇場という場所に対して、すごくしらけてしまっているところがあって、作品のテーマについての切実さが初演の時から変わっているなと感じています。
――活発な活動や言論の場所、あるいは劇場に対してしらけているという感覚について、もう少しお聞きしたいです。
今回戯曲をリライトしながら、李静和さんの『求めの政治学』(*1)という本を読み返してるんですけど、そこに、マジョリティとマジョリティは出会えるし言葉も通じるけど、マイノリティとマイノリティはそもそも出会えないし、出会ったとしても言葉が通じないみたいな話が書かれていて。私はそれを劇場文化にすごく感じています。アーティストってたぶんどこかしら世の多数派に添うことが出来ないと感じる部分があって、劇場にやってくる人たちも、そういうマイノリティ性に共感的・親和的であることが多いと思うんですね。でも一方で、劇場に来られる時点である種のマジョリティというか、その作法とかに乗れる人であるとも思うんです。つまり自分ではマイノリティ性に立ちながらマイノリティ(性)に対峙しているつもりでも、実際に起こっているのはマジョリティ同士の交流になってしまっている面があるというか。そこへの無自覚さが、劇場コミュニティの狭さになっているんじゃないか。
――劇場が結局はマジョリティのための場所になってしまっていると。そこから抜け出すためには何が必要なのでしょうか。
たとえば、他者に対する想像を働かせる、想像力を持つ、というようなことがよく言われると思います。たしかに想像力は大事なんだけれど、いま流通している「想像力」で通じ合えるのって、元からかなり同質性の高い人同士のような気がします。どっちかっていうとむしろ「想像してもしきれないことがある」ということを考えるのが大事なんじゃないか。
『求めの政治学』の中に、想像力を発揮すると体が傷んじゃうみたいなことが書かれていて、それってどういうことなんだろうと。静和さんの言い方だと、「先進国」の人間はメディアもたくさんあるから想像力を外へ、他者へパッと伸ばすことが習慣化しているのに対して、「第三世界」の人々は感受性が生を不可能にしないよう、なんとか死なずに生きていくために想像力が制限されざるを得ないというんですね。後者は言葉に到達しえない状況にあるんだけれど、前者は前者で、想像力の過剰のために言葉を喪失していると。想像力が、貧困なのではなく過剰で、そのために言葉が生の現場性から疎外されて空中戦みたいになってしまっている。それがすごく、ピンときました。
いま、現場性から離れた言葉=俯瞰の位置に立って発される言葉を、疑ってます。俯瞰するためには普遍的な価値みたいなところに立たないといけなくて、それはある程度共通の価値観や言語というものを必要とする。でもその共通の基盤が前提にしている近代的個人って、いまの私の感覚からするとかなり規格化されたものというか、個を捨象して成立しているものだったんだなあっていうのを産後思うようになって。前は違和感なく「私は個人として考えたり喋ったりしている」と思っていた状態が、いまは、支配的な価値観や言語の体系に乗っかった状態、自分の個別の身体や状況にそぐわない状態と感じられて、同じ感じに話すことが難しいです。
『求めの政治学』の語りはすごく意味を取りづらいんだけれど、それはたぶん、「普遍」に抵抗するために、何とか語り方を発明しようとしてるんですよね。そういう風にしないと、そこで均されているものからこぼれてしまう個の大変さとか苦しみみたいなものに触れることはできないということなのかなと。
演劇で想像力を駆使するというのも、括弧付きの狭い「普遍」の上だけで洗練された共通言語のやり取りということでは仕方がない気がするんです。そうではなくて、むしろ想像力を駆使するということの限界について……そこがやれたらいいんじゃないかな、と思っています。
――想像力の限界を考えるというのはとても大切なことだと思いました。しかし、そのように考えると、極端にいえばそもそも他者を想像で描くこと自体に問題があるという話になってくる気もして、そうすると、作家が(取材に基づいたものであれ)他者を表象するのではなく、他者自身に出演してもらう、ある種のドキュメンタリー演劇のようなやり方がよいのではないか、という考え方もありうる気がします。でも西尾さんの場合はそれとも異なる道を行こうとしているのですよね。
そうですね。ドキュメンタリー演劇という方法で可能になることも、もちろんあると思うんですけど、それが有効なのは、当事者が語りうる、語りたい事柄について、これまで語られる/聞かれる場が十分に用意されてこなかったケースなのかなと。でも当事者が語りえないこともある。言葉にしてしまったら、生きていかれないようなこと。
当事者のことは当事者が語るべきであって、非当事者が安易に語ってはいけないっていう感覚があると思うんですけど、でも当事者しか語れないとしたら、当事者が語れないことはパブリックには「ない」のと同じになってしまう。どうしたら他者を勝手に理解したことにして代弁してしまわず、俯瞰では届かないことを書けるのか? そこに、フィクションとしての演劇の余地があるんじゃないかと思っています。語れない出来事の中身を明らかにするという意味ではなくて、その出来事を語れないまま抱えて生きている人の「ひとりの時間」を、観客が見る、ということを考えています。
もうひとつ、暴力とか害されるということが、人の何を棄損するのかということを考えていて。無傷なわけないと思うんですよね。暴力を受けた人は、本来ならそうではなかったはずの形に変えられてしまう。その状態込みで「その後」を生きていかなければいけないことまで含めて、被害だと思います。例えば希帆は、周りからするとすごく「厄介」な人になってしまっている。だから孤立しているし、子供のネグレクトのような形で、次の暴力を生んでしまってもいる。それは元をたどると彼女のせいじゃないんですけど。その、与えられてしまった「厄介」さも含めて一緒にいるってどういうことか。例えば私なら希帆とどういられるか、あるいは私が希帆だったら、誰がどんな風に私の隣にいてくれるだろうかと考えてます。それはきっと全部ハグみたいな感じじゃなくて、クソ面倒くせぇって思いながら、そう思ってしまう側の狭量さもなしにしないで一緒にいるみたいなことだと思うんですけど。
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*1 李静和『求めの政治学:言葉・這い舞う島』岩波書店、2004年
2022年12月7日収録、インタビュー・構成:江口正登〈合同会社syuz’gen〉